市民セミナー報告書より
今年一番の冷え込み
午前8時の六甲山上の気温は-8℃、前日に続く寒さで今年一番冷え込みだとのことでした。午前中の環境整備のボランティア活動には9人が参加し、アセビ実験区画と周辺の観察・調査を行いました。二つ池は水生植物ヒルムシロが緑色のままで凍結し、透明な氷は3センチほどの厚さでした。
妻木さんは歴史を生かすまちづくりに注力
講師の妻木 敏彦さんは北区役所有馬連絡所長で、古文書などの資料を集めた有馬文庫も運営されています。今回は北区役所まちづくりサポーターの武内 志津子さんとご一緒でした。
有馬の町おこしにつながる様々な活動も披露されました。お二人揃って、有馬温泉を多くの神戸市民に親しんでもらおうとメッセージを発信されました。
日本有数の有馬温泉の由緒とこれから
有馬町の面積は8.3平方km、六甲山の山頂まで続いています。人口は1400人程度で、旅館の収容人数は6000人、温泉が中心の町です。有馬小学校も生徒が34人の小規模校です。
有馬温泉は日本書紀に書かれている最も古い温泉で、白浜温泉、道後温泉とともに日本三古泉と称されていました。温泉を100倍に薄めても成分の基準を満たしており、近くで全く成分の違う湯が出るのは世界でも珍しいとのことです。温泉寺を開いた行基菩薩、荒れ果てた温泉を復興した仁西上人、そして有馬温泉に何度も来た豊臣秀吉は、有馬の三恩人と言われています。
講演では、有馬温泉の歴史や概要の説明から魚屋道(ととやみち)の間道騒動、鉱山(かなやま)騒動の話へと進みました。地元の人たちが六甲山を南北に結ぶ難工事に取り組んで、本街道の宿場から訴訟を受けて敗訴を続けました。一方、唐櫃村の鉱山開発などに対して、源泉が枯れると訴訟した鉱山騒動では勝訴を続けました。有馬温泉の興隆をめぐる歴史秘話は、地域への関心を高めました。
終盤は歴史を生かすまちづくりへの有馬温泉の様々な取り組み、妻木さん達の有馬文庫(兵庫県の県民交流事業)、「癒しの森」づくりなどを紹介されました。
参加者からは、有馬温泉や癒しの森についての期待や、活性化につながる提案なども出て、有馬温泉の魅力を一緒に考える場になりました。
有馬温泉への関心をさらに高めたい
日本有数の温泉の町である有馬温泉は有名な観光地ではあるが、周辺に住む神戸市民も頻繁に訪ねていきたくなるような地域づくりも目指していくようだ。「こうべ」の有馬温泉としての魅力再発見を進めていきたいものです。
講演内容
講演の挨拶(妻木 敏彦さん)
阪神大震災の後、北区役所有馬出張所の所長として有馬に赴任しました。古い本を見ていて、「有馬は面白い町やな」と思って有馬文庫などの仕事に取り組むようになりました。
1.有馬温泉の歴史
■観光の町、有馬
有馬町は面積が8.3平方kmで、六甲山の山頂まで有馬に含まれる。人口は1472人の小さな町だが、旅館の宿泊定員は約6000人、まさに観光の町だと言える。「有馬町」が地方自治体の名前になったのは明治29年で、それ以前は「湯山町」や「湯の山」と呼ばれていた。神戸市には昭和22年に合併された。温泉は昔から有馬温泉と呼ばれている。「間」と書かれることもある。「ま」は「須磨」や「飾磨」に使われるように、土地の広がりを表す言葉だと思われる。
■有馬温泉は日本で最も有名な温泉
湯量はそれほどでもないが有名さでは日本一だろう。また道後、白浜温泉と並び、三古泉のひとつに数えられている。実際に温泉がいつから出ていたかは調べられないので、史料に記述がある温泉を古い温泉としている。有馬は日本書紀に舒明天皇が湯に入られた(631年)という記述がある。天皇が来られるということは、当時既に名前が知られており、受け入れ態勢があったということだろう。江戸時代、林羅山は草津温泉、下呂温泉とともに有馬を三名泉に数えている。
■金泉は100倍に薄めても基準を満たす濃さ
有馬の温泉は金泉と銀泉の2種類ある。金泉は茶色く濁っている。地中では120~130度の高温で、泉源は深さ200m程度のところにある。温泉法では、地中から湧き、25度以上あるか又は基準にある成分をひとつでも満たしていれば温泉といえる。有馬の温泉は100倍に薄めても基準を満たすほど濃い。塩分が海水の2倍あるのも特徴。
銀泉には低温で無色透明の炭酸泉とラジウム泉がある。炭酸泉は、炭酸ガスで虫が死んだりするので明治以前は毒水とされていた。すぐ近くから全く異なる成分の温泉が出ているのは世界的にも珍しい。
■歴史上の人物が度々訪れた有馬
大己貴命(おおなむちのみこと)・少彦名命(すくなひこなのみこと)の2人の神様がカラスが傷を癒しているのを見て発見したという伝説がある。724年、行基菩薩が来て温泉寺を開いた。その後、震災や洪水で荒れ果てた有馬を復興したのが仁西上人。豊臣秀吉は何度も有馬を訪れている。この3人を有馬の三恩人と呼んでいる。
■有馬への道
江戸時代以前は、京都から淀川を下って神崎まで来て西国街道を通り、六甲山の裏側を遠って有馬に入った。明治7年に東海道線が開通すると、住吉駅が最寄駅になった。住吉駅周辺には今でも有馬道の碑や有馬道商店街という名前が残る。明治31年阪鶴線(福知山線)が開通して生瀬、その後三田が最寄駅になった。大正4年には三田から有馬をつなぐ有馬鉄道が開業したが、昭和18年に鉄材供出のため休止になった。神戸電鉄が昭和3年に開通、平成10年に阪神高速北神戸線が開通し、全国の高速道路網と繋がった。
■歴史を活かすまちづくり
太閤の湯殿館:阪神大震災で全壊した極楽寺の庫裏を建て替える際、太閤さんの時代の温泉施設が出土した。その上に太閤の湯殿館を建て展示している。道路愛称:名前のなかった細い道に「湯本坂」や「炭酸坂」という愛称をつけた。有馬文庫:兵庫県の県民交流広場事業で、有馬の古い写真や資料の散逸を防ぐ目的でつくった。癒しの森:自治協議会が所有している山地52haに歩道や休憩場をつくって「癒しの森」として開
放している。
3.間道騒動~魚屋道(ととやみち)の話
■六甲山の道は密輸?ルートだった
江戸時代には今でいう国道にあたる街道があり、宿駅があった。抜け道として六甲山の道があった。本来決められた宿場を利用せずに物を運ぶのはご法度で、大げさに言えば密輸ルートになる。江戸時代を通して7回訴えられており、全て敗訴している。広げた道を細くし、かけた橋を元に戻させられた。
訴状の要約「湯山町の者は青木村まで3里(約12km)岩山を切り崩し、大変な大工事をやっている。道幅を1~3mまで広げ、認められた街道のようにしている。道筋を牛馬・諸荷物・旅人・カゴ・・・が通り、駅所に差し支える。もってのほかの大造成・道普請だ・・・」 有馬の反論「道はボランティアでつくった。冬は雪だし、夏は木陰もない。抜け道と言うが、ご公儀も使っている道だ。灘の方から勝手にやってくるのを止めることはできない。大造成なんてできないし、宿駅に費用を出してくれと言ったこともない」 明治元年にようやく紛争は解決し、明治7年には住吉から上がる道が県道として認められた。海辺から山頂までは2時間半、山頂から有馬まで1時間半の合計4時間コースだった。 江戸時代に入ってまもなく、鉱山御差留という騒動が起きている。近隣で鉱山開発の話があると、温泉が枯れるといって差し止めを求めた。1673年唐櫃村を訴えたのを皮切りに、1807年に西宮の鷲林寺を訴えるまで、史料に残っているだけで17回訴訟を起こし、全て勝っている。 有馬の温泉は海水の2倍の塩分を含んでいる。終戦後、塩が不足したときには温泉から塩をつくる工場があった。塩を含むため、昔は海に泉源があると考えられていた。和歌山の熊野から芦屋を遠って有馬に繋がっているという説があり、湯脈の近くに鉱山開発の話があると訴訟を起こしたようだ。 源泉の塩がとてもおいしかった。売ってるところは?:旅館では出しているところもあるが、売っていない。鉄分が豊富で漬物をつけたらおいしい。 有馬は全国の温泉と比べてどうでしょうか?:温泉法、療養温泉としての基準から見ると、間違いなく日本一。料金は高いが、納得できる料理、サービスがあると思う。見所はいっぱいあるが、うまく発信できていないかも知れない。 癒しの森をご存知の方はどれぐらいいらっしゃるでしょうか。兵庫県県民局の事業として1億円の予算で平成19年にオープンしました。筆屋道や炭屋道といった道路をつくり、約2時間かけて散策できるようになっています。都市に近い里山として、皆さんもぜひご利用下さい。 神戸牛を有馬の塩で食べれば絶妙だという話も出た。有馬について今後も話題を求めていきたい。2.鉱山(かなやま)騒動
■泉源を守るため鉱山開発を差し止めた
■有馬の温泉は熊野と繋がっている!?
質疑応答
まとめ(妻木さん・武内さん)
事務局より