参加申し込み

市民セミナー報告書より

午前中は40人で環境整備活動

 午前10時から12時まで、自然体験会&環境整備活動を実施しました。イベント清掃ぴかぴか隊20名、六甲遊悠10名が大挙参加し、40名という大人数で、第3期アセビ伐採調査の標準5区画のアセビ約100本の伐採をほぼ終えました。
 暑い日中の作業を済ませて午後の市民セミナーにも出席され、セミナー参加者は54名の大勢で賑わいました。

大学院生時代から六甲山の防災を研究

 六甲山の防災で著名な沖村さんに、財団法人神戸都市問題研究所が主催した「都市資源としての六甲山」研究会でお会いして、市民セミナーにご出講をお願いしました。
 神戸大学大学院1年生の時、1967年(昭和42年)の大水害に遭遇された直後から現地調査をされて、六甲山の崩壊と関わる研究生活を50年間続けておられます。
 最終的な研究目標は「人の命を亡くさない工夫をする」で、「人の命が亡くなるのを何とか防ぎたい」と情熱を傾けておられます。市民セミナーでは「避難行動」の自助努力を訴えられ、出席者は共感ひとしおでした。

六甲山の人間活動と防災の関係がわかった

 市民セミナーの冒頭、ブロックダイヤグラムや扇状地の地図などで、六甲山を視覚でとらえる説明をされました。六甲山の成り立ちや地質、気候などの特徴を踏まえて、「六甲山は土砂災害が起こりやすい」と強調されました。
 続いて、人間行動の歴史を紐解かれました。豪雨による土砂の浸食と、木材の伐採や石材、松根等の採取というヒューマンインパクトが六甲山を禿げ山にした原因であると述べられました。
 そして、神戸港開港以来の急激な都市化の進行です。増える人口、住宅地の開発は甚だしいものです。水道の敷設、植林活動、そして砂防事業が進みます。
 そんな過程で三大水害が発生しました。「砂防ダム」をはじめ、防災工事などのハードウェアの対策、沢山の法律で行為の規制が行われて、防災の活動が進展していきます。ご自分の体験を元に具体的に説明されるので、参加者は大きく頷いていました。終盤は防災から減災への展開を述べられ、避難勧告というソフトウェア対策に即した「避難行動」をヒューマンウェアとして説かれました。
 多くのスライドを用意されての明快なお話しで、都市防災の概要を理解することができました。

六甲山の防災が身近になった

 六甲山麓の市民は六甲山と共生しています。六甲山の自然環境の災害から都市生活を守る、防災の活動を専門家の視点から体系的にお話しいただきました。出席された皆さんが熱心に質問し発言されました。自然の脅威と背中合わせで、安心な生活を楽しめていることを実感しました。

講演の内容

講演の挨拶(沖村 孝さん)

 皆様の格好を見て、舞台衣装を間違ったと思いました。仕事場ですから、六甲山に登るための衣装は一杯持っています。今日の目的がお話をすることなので、仕事着よりこの方が相応しいと思いました。

1.私と六甲山との関わり

■初めての六甲山ブロックダイヤグラム

 20年以上前、1万分の1の地形図を200mメッシュで切って標高を読んで作った。西から六甲を眺めた一辺が200mの図で、須磨断層、諏訪山断層、五助断層、大月断層が走っているのが分かる。

■六甲山の性格と土砂災害

 六甲山は北東~南西約30Km、北西~南東約7Kmの規模で、150~200万年前の第四紀から隆起活動が始まった。地質は花崗岩で風化が激しく砂質の土砂となる。気候はモンスーン地帯で豪雨が多発する。神戸で年間1200mm位の雨が降り、土砂災害の原因となる。一方で地震も起きるのが六甲山だ。

■六甲山と人間活動・都市化と開発

 7世紀以前は摩耶山、再度山が山岳修行の聖地で、9世紀頃に山岳寺院の天上寺、大龍寺が建立された。10~16世紀は戦国・戦乱時代で、城砦が各地で建設され石材や木材が乱伐された。大阪城築城の時に豊臣秀吉が「勝手足るべし」と、薪や樹木を採る許可を与えた。17~18世紀に入ると、牛の飼料、屋根に葺く萱、燃料としての薪や松根の乱伐、山火事の頻発による荒廃が進み、結果として土砂流出が激しくなった。
 1867年に神戸港が開港し居留地が置かれた当時、人口は2万数千人で、22年後の89年には約6倍の13万4千人になった。飲料水は扇状地伏流水の井戸水で、生活用水の悪化で、伝染病やコレラが発生した。93年に公営水道の敷設、水源の布引貯水池が決定した。

■砂防事業の始まりと進展

 1893年に土砂災害があった。禿げ山を緑にする、水源地に緑が必要だという2つの理由で砂防事業が始まった。95年に兵庫県が逆瀬川の流域で砂防事業を始めた。日本全体でも治山治水を進めるため、96年に河川法、97年森林法、砂防法という3つの法律ができた。
 布引貯水池の水源流域の再度山も荒れており、砂防と水源確保のための植林が必要になり、1900年から本格的に六甲山の植林が始まった。03年に1,100haが砂防指定地に認定され、13ヵ年計画が着手された。37~38年に、共有林1,520haが神戸市に寄贈されて、土砂災害対策としての植林が進行した。
 人間の手で緑の回復が行われ、六甲山は緑が回復するようになった。回復したら山火事が頻発した。観光レクレーションとして、摩耶ケーブル・裏六甲ドライヴウェイ・六甲ケーブルなどの開発も進んだ。

2.六甲山の3大水害

■1938年(昭和13年)の集中豪雨

 昭和13年の7月3日から5日にかけて、総雨量として300mm以上が六甲山全体に降った。ようやく緑が回復しつつあり、同時にドライヴウェイ等の開発も進行している時期であった。全体の総雨量200mm以上、雨の降り方としては後方集中型で、前半は10mmのしとしと雨、後半に強い雨がどっと降る。こういう場合には山崩れが起きる。昭和13年の場合、30mmの雨が3時間以上継続した。

■1961年(昭和36年)の豪雨被害

 昭和36年6月に災害が発生した。明治18年~大正12年は、海岸地のところでポツリポツリ住宅が点在していたが、海岸地の全体、特に三宮から元町、灘は大きく開発が進んだ。大正12年~昭和10年になると、灘から東灘にかけて開発が進んだ。昭和10年~20年、終戦直後までは山麓で開発が行われた。24年~36年の高度経済成長の頃、山麓でどんどん宅地造成が行われた。こういう時に雨が降り、宅地や造成地が壊れた。

■1967年(昭和42年)の豪雨被害

 昭和42年7月9日、私は神戸大大学院1年生だった。日曜日のゼミは雨で中止され、10日に大学に行き、現地調査を始めることになり、そこから六甲山の崩壊と関わる研究生活に入った。修士論文は自然災害と豪雨による問題となり、六甲山との付き合いが始まった。

3.土砂災害に備えるための3つの柱

■主としてハードウェア対策

 都市災害を止めるにはハード対策が圧倒的に大きい。六甲砂防事務所、兵庫県砂防課、或いは神戸市で砂防対策が行われている。これプラス、行為の規制といういろんな法律がある。六甲山を守るため、乱開発を防ぐための許可基準で、厳しい法律ができあがった。
 国立公園法、特に特別保護地域これは厳しい。都市計画法、風致地区、それから都市緑地法、近郊緑地法、特別保全緑地法。砂防法、森林法、急傾斜法、宅地等規制法。いろんな法律が全部被さっており、乱開発、勝手な工事は許しませんという形になっている。
 防災工事によって安全を保っていこうというのが、二番目の考え方で、様々な工事の種類がある。
【崖崩れの対策】家が壊れるのを防ぐ、コンクリートの擁壁、ストンガード。道路にはコンクリート枠工がある。30年代の初めは崖に対してモルタル吹付で、石ころが落ちない様にした。
【砂防ダム】土砂を止めて土石流災害を減らす。あまりがっちり止めると細かい土砂まで止めるので、六甲砂防では近年、スリット型の堰堤を多く採用している。
 昭和32年住吉川に、高さ30m、長さ78mの巨大な五助堰堤が完成した。昭和42年7月9日の災害で、たった一晩で土砂が満杯になった。
【砂防ダムの効果】昭和13年当時は砂防ダムがあまりなく、市街地に83.5%の土砂が流れ、山の中には16.5%の土砂が留まった。市街地で亡くなる人が圧倒的に多かった。42年時には77.5%が山の中で砂防ダムに留められ、市街地に流れたのは22.5%だった。市街地で亡くなる人は殆どなかった。
 砂防ダムは、昭和42年の災害で非常に大きな効果があった。

■ソフトウェア対策の登場

 自然災害の減災の例として、1995年の阪神淡路大震災以降に六甲山で採られたグリーンベルトがある。これは都市の防災空間緩衝緑地、市街地での安全確保になる。レクレーションの場にもなる。六甲の南側で盛んにいろいろな工事が行われている。
 そして避難のための防災ソフトウエアで、雨の降っている最中に「皆さん逃げて下さい」という情報の提供手段だ。県から土砂災害警戒情報が出ると、市は避難勧告とか避難指示を発信する。

■3番目はヒューマンウェア対策

 斜面土砂災害対策は、ハードウェア(構造物の施工:公助)とソフトウェア(行為の規制、避難情報の提供:公助)の両輪で実施されている。
 3番目はヒューマンウェア(避難行動:自助と共助)である。避難勧告を聞いたけれども避難しない人に、どういう情報を与えてどんな刺激を与えれば、避難しようというモチベーションなるのかが、私自身の大きな研究テーマだ。今盛んに言っているのは、避難訓練だ。

まとめ(沖村さん)

 災害時の経験を頭で理解することと体で理解する、普段の備えが必要になります。何とか避難するモチベーションを高めることを皆さんと一緒にやって行きたい。

質疑応答

■ダムに溜まった砂をどうして掻き出すの?
原則として掻き出さない。勾配が緩くなって途中で土砂が止まる。斜面の下を固めることになり、右岸左岸の崩壊を防げる。
■阪神大震災で考え方を変えられたのは?
加納町3丁目の交差点を越えた途端に被害が大きくなり、地盤特性が影響していると考えた。そして、地盤分布図を作ることに専念した。また、復興計画の中に、防災に加えて「減災」も提言した。

事務局より

 六甲山の成り立ちや都市化の歴史の変遷が理解でき、災害発生や防災活動の関係が鮮明になった。参加者は、都市災害を被った六甲山麓の市民ならではの真剣さであった。沖村さんが強調された、避難行動の習慣づけを心がけていきたい。