市民セミナー報告書より
48名が午前中の活動に参加
朝の記念碑台は快晴で風が強く24℃と爽やかでした。27名が自然歩道の整備、21名が「散歩道」のモニターを行いました。午後の市民セミナーは52名で大賑わいでした。
30年ぶりに六甲山での活動を見直した戸田さん
今年の2月11日、県立人と自然の博物館で10数年ぶりに戸田 耿介さんにお会いして、講演をお願いしました。30年前には市民セミナーの拠点にしている県立自然保護センターの建設など、六甲山の整備や活用で尽力されています。せっかくなので、六甲山の国立公園編入の経緯や特色
を踏まえて今後の課題も検討することにし、戸田さんは眠っている資料の掘り起こしをされました。
また、神戸市・六甲山整備室長の松岡 達郎氏、神戸自然保護官事務所長の関 貴史氏にご参画いただき、座談会という試みも実施できました。
六甲山は利用を重視する特異な国立公園
第1部では、昭和9年に日本最初の国立公園のひとつとして瀬戸内海が指定され、昭和31年に六甲地域が追加指定されたことが説明されました。この編入については、田村 剛博士の「六甲山観光計画」、当時の宮崎 辰雄市長の「国立公園に指定されて規制が多くなった」と反省する回顧録が紹介されました。六甲山が編入された実情がうかがえました。
続いて、国立公園のクイズをもとに、国立公園の公園計画、土地利用や植生変遷、六甲山の特色を解説されました。六甲山の活用では、「健康づくり」への関心が紹介されました。
第2部の冒頭で、松岡さんが「六甲山森林整備戦略」を要約して解説されました。六甲山を「都市山」と位置づけて、森の手入れ=木を伐ること、森林の機能、公益機能、災害防止機能など多岐にわたって説明されました。「人の手による荒廃」を踏まえて、手入れから「豊かな自然」も復元す
ることを強調されました。
関さんは、原生的な自然が残っているという国立公園のイメージに対して、六甲山は景観とレクレーション機能の2つのうち利用に重点があり、他の国立公園よりも規制が緩やかだと説明されました。
座談会では山の上が賑わった頃の体験談や、住民が減少した現状を懸念する報告もされました。六甲山が寂れた原因については、保養所の撤退の影響が大きいと指摘されました。これからについては、行政の役割や努力に加えて、六甲山を地域の共有財産として市民と一緒に取り組むこと
が話題になりました。戸田さんは「市民がモデルをつくることが大事だ」と締めくくられました。
六甲山の現況と課題に市民の関心を高めたい
「六甲山は誰のものですか?」という問いに、「みんなのものです」という確認をしました。正面から本格的に六甲山について語り、関わる人が増えることを期待します。
講演の内容
講演の挨拶(戸田 耿介さん)
私が六甲山に関わったのは昭和50年代、30年前で、センターの階段左手に植えたケヤキも大木になりました。建物は昭和50年オープンですが、オイルショックで予算が増やせず、苦労しました。
〈第1部:講演〉
1.国立公園指定の背景と経緯
■戦前までの六甲山開発
注目するのは、昭和2年に阪神電鉄が有野町から約250ヘクタールの土地を買収したことだ。ドライブウエイやロープウエイなどが整備され、別荘や保養所が溢れて、昭和10年代に観光ブームが訪れた。戦争で市街地が空襲に遭うなど、開発の火は消えた。明治の緑化から始まり、観光地として脚光を浴びてずいぶん利用された。
■瀬戸内海国立公園に編入
昭和9年(1934)に瀬戸内海が日本で最初の国立公園に指定された。1府10県にまたがる海の公園で、多島海景観と人の営みと融合した人文景観を特色としている。
昭和31年(1956)に六甲山地域(6,788ha)が追加指定された。戦後の復興期になぜ六甲山が指定されたのか疑問を持った。日本を代表するほどの自然の価値とは思えず、編入の裏づけ資料を探した。
■根拠資料は「六甲山観光計画」
昭和30年(1955)に「六甲国立公園指定促進連盟」が作成した資料の中に、田村 剛博士の「六甲山観光計画」がある。国立公園を指定する選考委員会の委員長をされていた。この方に頼んで書いてもらったようだ。その資料で六甲山を評価している。
自然景観としては、植生面において見るべきものが少ない。山上より四周の展望は頗る雄大で、全国に比べるものがなく・・・。人口稠密な阪神地方に介在する六甲山は、簡易に半日から一日の行楽に適する点で、全国に類のない利用度の高い行楽地であり・・・、その利用方法は頗る多角的である。などと結論づけている。これでパスしたみたいだ。
一方、当時の宮崎 辰雄市長は回顧録で、「環境庁の取り締まり事項が多くなり、利用の仕事ができにくくなった」と反省しておられる。ここは、利用することを目的に指定された公園だと改めて確認できた。
2.自然公園としての特色
■自然公園計画
国立公園は景観や自然を保護する上で土地区分をしている。一番厳しいのが特別保護地区で現状維持が原則。六甲山では、西の再度山から摩耶山辺り、東は最高峰の北側と南側など。次は第1種特別地域で保護優先、摩耶山の下の方などに結構ある。第2種と3種はどちらかというと利用、林業ができるかどうかで決まる。第2種地域はいろんな調整を行う。第3種地域は農林業
はフリー。普通地域というのは六甲山にはない。
■土地所有状況
六甲山で特徴的なのは土地所有状況で、国有地は1%(震災後5%)しかない。それも国有林と防災緑地で、公有地はほとんどが神戸市。半分以上が私有地になっている。全国で見ると、北海道などの国立公園では国有地が多く、私有地・公有地は4分の1くらいだ。六甲山は私有地が多く、国立公園の規制は難しい。元々、観光的に開発された場所で、後から規制を被せていることも難しい理由の1つ。
3.六甲山系の環境保全および活用の在り方
■土地利用と植生の遷移
昔は奥山、弥生時代くらいまでは原生林であった。平安時代からどんどん人が使い出し、山は燃料として使われた。江戸時代の終わりから明治の始めにかけては、ほとんど禿げ山になった。
明治の中頃から、災害防止とか水源涵養のために植林が始まった。特に昭和に入ってから緑が深まった。
服部 保さんの資料にあるように、植生は江戸時代から変わってきて、現在では山の上の方はコナラ、尾根筋はアカマツ、下の方は常緑樹に変わっている。いずれは、下の方はカシなどの常緑樹林、上の方はコナラなどの夏緑林に変わると言われている。
■健康づくりに関心
震災の年、毎日登山の人を対象に調査をした。目的を問うと26%が心身のリフレッシュ、健康に良いというのが47%だった。六甲山はどんな山かを訊ねたら、健康づくりで半数近く、次が景観、災害防止がベストスリーだった。
〈第2部:座談会〉
1.「六甲山森林整備戦略」の大筋(松岡 達郎)
私のところは基本的に森林の手入れ、観光の話も含めて考えている。六甲山系は、表六甲だけでなく、北側も住宅開発され、市街地に囲まれている山なので都市山だ。
人の手による荒廃:人間が樹木を過剰に収奪して禿げ山になったのが六甲山だ。
1900年代に治山治水三法が制定されて緑化が進んだ。人間が手を加えることによって、六甲山は豊かな森林に蘇った。100年ばかりで植生が回復したので 片寄りも大きい。土壌はそんなに回復していない。それを放ったらかしにできない。
人が手を加えた方が望ましい景観が作れ、多様な生物の成育区域ができるのが可能な面もある。六甲山には種々の法律があり、木を伐ることに制約があるので、環境省とも話しして適切にやっていきたい。
2.環境省の六甲山の見方(関 貴史)
国立公園というと雄大な景色や、
昔からあった自然がそのまま残って
いる所がイメージされる。六甲山は
景色がいいのと、都市圏に近くて山
上のレクレーション機能が優れてい
るので指定された。保護と利用では、六甲山は利用の方にかなり重点を置かれ、全国的にもかなり特異な
場所だ。残っている自然も天然のものはほぼなく、スギ林やマツ林など単一の植生が見られる。これに手を加えると元の自然の状態に戻すことにもなる。
昔からレジャー施設があり、人が利用している場所なので、自然のイメージや風景を壊さない程度でやることなら、むしろ進めていくべきだと思う。
3.座談会の話題
- 人口が減って街が成り立たなくなっている
- 山上の盆踊りも最近は途絶えた
- 保養所の閉鎖の影響が大きい
- 市民の力で環境活用する事例もある
- ドライブウエイ沿いの樹木が枯れていく
六甲摩耶鉄道社長の上田さんの「『山上に居る者』の視点から見た六甲山」を引用して問題提起された。
山上で育った村上さんが、70年にわたって山が賑わい、5年前から盆踊りが途絶えたと体験を話された。
山の人口は最盛期で1,000名程度。保養所の閉鎖が進んで、環境を維持する機能も弱まっている。
活用する会から「まちっ子の森」での活動や、自然歩道の整備活動と、市民が担う難しさも紹介した。
松井さんが、ドライブウエイ沿いの樹木にカズラが
巻きつき、樹木が枯れる心配と対策の必要を訴えた。
まとめ(戸田さん)
自然公園という制度はあるのですが、法律が時代遅れになれば変えていかないといけないだろう。六甲山上の住民だけでは手に負えなくなっている。市街地のわれわれが恩恵だけを受けているのではいけない。何か新しい枠組みを考えたい。利用もし、手を動かすということで皆さんのご支援を期待します。
事務局より
市民セミナーで、一番やりたかったテーマです。情報や資料もいっぱい提供しました。すぐには結論は出ない問題ですが、それだけに議論を続けていく重要さを共有できたと思います。