市民セミナー報告書より
霧の六甲山
朝の六甲山は曇り空で、春の花シーズンは終わっていましたが、自然保護センターへの階段横で御衣黄(ぎょいこう)桜が咲いていました。
午前中はレクチャールームで平成23年度総会を開催しました。午後からの第98回市民セミナーには20名が参加しました。
後半になると霧が出て、梅雨が近づく風情に一変しました。下山時は視界が数十メートルで、車の運転に慎重になりました。
村田さんは酒造りと酒文化を伝導
菊正宗酒造記念館の村田館長は、酒造りから新規事業・営業支援など多様な部門を経験されており、「日本酒指導師範」という日本酒通です。和食普及研究会や日本酒道研究会にも携わって、日本料理(日本酒)に精通しておられます。
今回はアカデミックに「水車精米」をご説明いただきました。講演の終盤は、軽妙な「宮水の話」
も加え、落語調の語り口に参加者一同が抱腹絶倒しました。
貴重な産業水車を目にしました
講演の冒頭は「精米の意義」で、酒造りには米と水が味の決め手になること、「米を削らなうまい米はできん」と、酒米の心白までの精米を説明されました。菊正宗の大吟醸は精米歩合が40%とのことです。
続いて、灘の酒造りの歴史を語られました。2000年前に始まった米麹による酒造り、後醍醐天皇から菊正宗の社長のご先祖が「嘉納」の姓を賜ったいわれも知りました。天文19年伊丹白雪が創業、万治2年に菊正宗の創業、18世紀には江戸に入る酒の4割は灘の酒になっていた。大量生産のために、足踏み精米から水車精米に移行し、灘は繁盛した。
次は昔の水車精米の話で、摩耶山の灯明のごま油絞りの水車が都賀川上流で始まり水車新田ができ、菜種絞りに移った。18世紀には六甲山麓の河川に水車が広まった。圧倒的に多いのは住吉川であった。水を無駄にしないために、長いトユで水車場に配水したのは世界的にも珍しい。昭和4年に電気式臼が稼働して水車場は姿を消した。
講演の圧巻は昭和初期の動画の放映で、皆さんが身を乗り出して鑑賞し感激しました。
JR住吉駅沿いにも水車のパネル
100年足らず前には、六甲山の自然資源を上手く活用した水車精米が発達していました。今は住吉駅の南側線路沿いにパネル展示はありますが、今回は往時の姿を垣間見ました。産業遺産を伝承する大切さを実感しました。
講演の内容
講演の挨拶(村田 祥さん)
久しぶりに六甲山に上がってきました。菊正宗記念館でお客様を案内していますが、本来、酒の話やふざけた話が得意で、いつも通りと思っていたら、この会はアカデミックな話のようで、ちょっと真剣に準備しました。しかし、私本来の語り口で宮水の噺もします。
1. 精米の意義
■やっぱり、酒造りは米と水やな
酒は、玄米-精米-洗い-浸せき-蒸す(蒸米)-麹。さらに、蒸米と麹を仕込み-発酵(酒母-もろみ)-絞り-ろ過-火入れ-貯蔵-びんづめ、という工程で造られる。米、水は酒の味を決め、精米、麹、発酵の工程が特に重要となる。工程は杜氏が管理していく。
■米を削らなうまい酒はできん
米の外側は脂肪、蛋白、ミネラルがたくさん含まれ、着色、雑味(苦み、渋味、エグ味)の原因になるので、外側を削ってしまう。酒米は中が白く(心白)澱粉だけで、ここまで削り取る。ここに水車が使われた。
■山田錦さまさまや
精米で残す割合を精米歩合といい、一般の酒:75%、本醸造:70%、吟醸:60%、大吟醸:
50%と分類される。菊正宗の大吟醸は40%である。これ以上削ると突然粉になってしまう。有
名な山田錦は35%位までいけるとされる。
2.灘の酒造りの歴史
■後醍醐天皇からおすみつきをもろたんや
2000年以上前、稲作伝来とともに米麹による酒造りが始まったという。以来、主に宮中で酒が
造られてきた。
建武の時代(1250年頃)、後醍醐天皇が隠岐の島に流される途中、菊正宗の嘉納社長の先祖が天皇に自家製の酒をさし上げた。これを機に嘉納という姓を賜ったという言伝えがある。
■頭で考えんとうまい酒はできん
天文19年(1550)伊丹白雪が創業、万治2年(1659)魚崎で菊正宗が創業した。伊丹では足踏
み精米だったが、伊丹から灘に移行する間に、元々、玄米で麹、蒸米を白米で作っていた(片白)のを、麹米も削る(諸白)ことになり、ほぼ今と同じ味の酒ができあがったという。
■「うんそうや」もただのシャレやないで
元来、関西の酒どころは伊丹、池田であったが、正徳6年(1716)、文献に灘の名前が出てきた。18世紀には大消費地・江戸が100万都市になるが、伊丹、池田は内陸で、運送の地の利がある西宮から神戸の海岸地帯に酒蔵がどんどん進出した。樽廻船で江戸に運び、天明5年(1785)には江戸に入る酒の4割、文化14年(1817)で5割超、幕末では6~7割が灘から運ばれた。
■水車精米やないと追いつかん
天明4年には「水車精米さかん」という言葉が出てきた。この頃から御影の酒造が発展し、嘉納
屋同族11人が酒蔵をもって繁栄した。天保年間(1835 年頃)には水車で2~4割を搗いていた。
■仕込み水にも発明の苦労があったんや
天保11年(1840)、6代目山邑太佐衛門は西宮、魚崎に酒蔵を持っていた。西宮の酒がうまい
ので杜氏や蔵の道具を入れ換えたが、どうしても分からない。ある時、西宮の仕込み水を魚崎にもってきたら魚崎でもおいしい酒ができた。これが宮水の始まりである。
3.昔の水車精米
■摩耶山で水車を回したんが始まりや
摩耶山天上寺で灯明用のゴマ油絞りをしたのが六甲山の水車の始まりだ。摩耶山麓の五毛(胡麻生)では文字通りゴマを植えていた。
その後、灯明には菜種油がよく、食用にもなったことで、菜種が植えられた。1777年、幕府は
油絞りの株を発行し、都賀川上流に数基の水車を作って油絞りが始まった。そこに住居ができ水車新田の村となった。
菜の花や 摩耶を下れば 日の暮るる 蕪村
■水の勢いを使うとは考えたもんや
伊丹、池田は足踏で精米(米踏み)したが、遅いので灘では水の使用を考えた。最初はシシオドシ式だったが、水の勢い(落差)を利用する水車になった。一般的な米搗き水車は、カムで回転を上下運動に変えて、臼と杵で米を搗き、万力(ギア)で力の角度を変え、ひき臼を回して粉をひく。力の一部で糠を取った米を持ち上げた。
■灘の酒は六甲の水があってこそや
18世紀には、生田川、都賀川、石屋川、住吉川、芦屋川、夙川の川沿いの、脇浜、大石、新在
家、東明、御影、魚崎、青木、深江、打出、西宮、今津に酒蔵が並ぶようになった。その上流に油絞り水車、米搗き水車が並んでいた。御影村文書(1788年)に、酒蔵、水車の様子が書かれている。水車が圧倒的に多いのは住吉川である。
■トユで水を無駄にせんとはえらいもんや
18世紀には、生田川、都賀川、石屋川、住吉川、芦屋川、夙川の川沿いの、脇浜、大石、新在
家、東明、御影、魚崎、青木、深江、打出、西宮、今津に酒蔵が並ぶようになった。その上流に油絞り水車、米搗き水車が並んでいた。御影村文書(1788年)に、酒蔵、水車の様子が書かれている。水車が圧倒的に多いのは住吉川である。
■昭和になって水車は終ったんやな
昭和4年にはモーターでグラインダを回す電気式臼が稼働した。水車はその役割を終え、次第に姿を消して、近代的な精米工場が出現した。
質疑応答
米の糠落としと米けずりは別の部屋では?
その通り。同室ではせっかく落とした糠が再付着する。
酒造りに嫌われるものは?
酸っぱいもの、低い声は、発酵で酒がわき上がる反対イメージなのでよくないが、気分的なものだ。ただ、納豆は麹室に納豆菌が入るのでダメ。
まとめ(村田さん)
灘の酒は播州の米と宮水も含めた六甲の水だとつくづく思います。菊正宗記念館ではなんやかんやと連れ回して案内するのが特徴で好評を得ています。興味のある方はぜひ立ち寄ってください。
事務局より
神戸を特徴づける灘の酒造りも水車という技術革新と物流革新の結果であるのがよく分かった。昭和初期の水車精米の動画を目にできたことには、皆さんが感動された。このような六甲山にまつわる昔の事実を発掘していきたいと思う。