市民セミナー報告書より
100回記念は大盛況
梅雨明けから10日、快晴の六甲山は30℃の暑さです。午前中は環境整備のボランィア21名、観察体験会の3名の24名が、26℃の二つ池環境学習林で活動しました。
午後からの第100回市民セミナーは、毎日、朝日、神戸の各紙で紹介記事が掲載されたこともあり、定員の2倍近く子ども4名を含む57名が参加しました。
紙王といわれる名塩雁皮紙の人間国宝
六甲山の北東に位置する西宮市・名塩に谷徳製紙所があります。雁皮紙はコウゾ・ミツマタ・ガンピの三大和紙の中で最も希少で、名塩雁皮紙は泥入りが特長です。
谷野武信さんは、2002年に文部科学省から「重要無形文化財名塩雁皮紙の保持者」(人間国宝)として認定されました。中学校卒業以来、初代のお父さんの跡を継いで、文化財や美術工芸品を支えている名塩紙の価値に目覚め、「けい続は力なり」の信条で60年励んでおられます。
六甲山麓で磨かれた和紙漉き
講演では、持参された原材料や紙製品の見本を手にしながら、名塩泥入り雁皮紙の製法や、様々な使われ方を詳しく説明されました。原料の雁皮は六甲山に自生しており、泥は近くで取れる凝灰岩を微細に砕いたものです。その紙漉きは力が必要で、大変難しいとのことです。
泥入りの名塩雁皮紙は400年前に東山弥右衛門が発明したものです。越前から雁皮紙の製法を導入し、さらに泥土を入れるという画期的な工法を開発しました。その由来と妻女の哀しい話は水上勉の『名塩川』に書かれています。
江戸時代には「名塩千軒」といわれる繁栄をしましたが、現在では製紙に携わるのは二軒で、名塩紙の全ての製法を伝承しているのは谷野さんお一人です。
熱のこもったお話しに続いて、BS2で放映された録画、技~極める「千年繊維・泥和紙を漉く」を鑑賞しました。付近から凝灰岩を採取して、水槽で攪拌して上澄みの微粒子を得る情景を見ました。力と技術が必要な紙漉の様子も眼にすることができ、名塩雁皮紙の貴重な製法、製品の使われ方などの理解を深めることができました。
終盤の質疑応答では、人材が輩出した名塩の歴史や、東山弥右衛門にまつわる話を補足されました。参加者は、六甲山麓で継承されている名塩雁皮紙に大いに関心をもち、
満足した様子でした。
地域の伝統工芸の魅力に出会えた
世界に比類のない名塩雁皮紙の魅力、その技術伝承を続ける人間国宝の谷野さんの魅力に親しく接することができました。六甲山麓の自然が育んできた伝統工芸に目を見張る思いを抱きました。多くのことを学べて感謝します。
講演の内容
講演の挨拶(谷野 武信さん)
小学校の時から,親父の手伝いで紙に関わっていますが、いやいやながら親の跡を継ぎました。大人になると名塩紙が世界に二つとないものと分かり,この仕事を続ける原動力になっています。
1.日本の文化を支える名塩雁皮紙
■名塩雁皮紙は六甲山の恵みでできた
雁皮:和紙には栽培された楮(コウゾ)や三椏(ミツマタ)を使うが、名塩では六甲山に自生の雁皮(ガンピ)を使う。雁皮はジンチョウゲ科の暖地性落葉低木だが、冷涼な六甲山にも自生する。六甲山のものは繊維が短く強靱でなめらかな紙肌を与える。10年位で指ほどの太さになった枝だけ伐り、ひこばえが出て10年経てば伐るということを何百年となく繰り返してきた。
泥と水:名塩雁皮紙は泥を加えるのが特徴だ。原料の青、白、黄、黒の凝灰岩も六甲山周辺で採れる。粉にして水槽で撹拌・沈殿させるが、上澄みに泥が浮くほどの微粒子である。これを綿布で漉し雁皮と調合する。水は水道水ではだめで、パイプで山水をひいている。
漉き方:自家製の特別な「のり」も漉き桶に入れる。普通の紙漉きは日本で開発された「流し漉き」だが、名塩では手一杯に拡げて簾を持ち、目で見て平均をとって水の濾別を待つ「溜め漉き」をする。中国から朝鮮経由で伝来したままの方法だ。
■生活に間に合う「間似合紙」(まにあいし)
名塩雁皮紙は①色が変わらない②虫が付き難い③燃え難い④ねずみがかじらない、などが特徴で、昔から生活に必須のものだった。自宅にある210年前の掛軸は染み一つ出ず、色も変わらない。
紙のサイズは1尺5寸、1尺2寸が多く、何枚かでちょうどふすまが張れる大きさである。日本建築の大きさに間に合うように漉いているので、昔から「間似合紙」で全国通用する。
■日本文化の基盤になる「間似合紙」
名塩に出る白い泥のおかげで名塩雁皮紙は継目がめだたず白壁様の外観を与える。昔から神社仏閣によく使った。二条城、桂離宮、西本願寺には300年前の紙が残っているが色あせもない。日光・田母澤御用邸(天皇陛下幼少の頃の住居)には900枚使われている。沼津御用邸、浜離宮、兼六園・成巽閣、熊本城でも、ふすまや壁に使った。英米の美術館では日本の美術品を所蔵し、名塩雁皮紙が使われているので修復のために問い合わせてくる。
平安時代から絵巻物や短冊に雁皮紙が使われた。与謝蕪村、長谷川等伯、緒方光琳、円山応挙など、みな名塩雁皮紙を使っていた。昭和に入って梅原隆三郎がたくさん名塩雁皮紙を使っている。その研究書では「間似合紙は継目がめだたない、絵の具の発色がよい」と書いてある。
2.私の生い立ち
■最初、紙漉きは嫌やった
1935年名塩生まれ、名塩小学校2期生になる。小学校の時から親父の手伝いで紙に携わってきた。学校から帰って友達と遊んで、ちょうどよい頃になると「はよ帰ってこい」と言われて、紙
漉きは好きではなかった。中学卒業後、長男でもあり「これだけ設備があるのでやめたらもったい
ない」と母親に言われ、しょうことなしに継いだ。本当はネクタイを締める会社勤めをしたかった。
■漉き桶の前に3年、それからも一生稽古
伝統が途絶えてしまうと思って継いだものの、手取り足取りは教えてもらえず、親父の後ろ姿を
見て技術を盗む日々だった。しかし、簡単に漉けるものではない。3年は黙って稽古、人前に出せるものができても一生稽古だ。
最近になって漸く、いい紙が漉けるようになった。親父の加減とやり方を変えて、ちょうどいい塩梅の「のり」ができるようになった。
■オンリーワンの発見が継続の力
香住の応挙寺の紙が名塩雁皮紙なのは青年の間に聴いていたが、それが日本文化の基盤になる「間似合紙」として全国で使われ、世界でも文化財修復に欠かせないことは後になって知った。これがずっと続けてこられた原動力になっている。
もっと早く知っていたら、もっと一生懸命にやるのだったとさえ思う。
金箔打原紙は金箔をたたいて延ばす時に挟む紙だ。終戦後、親父が始めて以来、これが無いと金箔ができないと言われ、世界中探してもない紙になった。
平成14年、67歳で人間国宝に認定された時は気持が一新した。いい紙を漉き続けなければと緊張感が続いている。
3.名塩の歴史
■名塩への紙漉き伝来は蓮如上人のころ
室町末期に名塩の村に蓮如上人が来訪し、村内の中山に草堂が建てられた。このとき24軒の家があり全村あげて檀家になるとして、お寺の創建を願い出た。これが名塩御坊と呼ばれ、やがて教行寺となる。この時、越前の紙漉き技術がもたらされたと言われている。以来、西本願寺で使う紙は名塩から持って行く。
■名塩千軒の隆盛をもたらした「泥」
400年ほど前の慶長・元和の頃、名塩の若者・東山弥右衛門が越前和紙の製法に、名塩の泥
を配合する新処方を発明して、大いに発展した。
江戸時代には、名塩雁皮紙が強靱、ニセ札になり難いと、藩札に用いられ、西国諸藩におさめた。壁やふすまにも珍重され、名塩千軒と言うほど賑わい、ほとんどの家が紙に関わっていた。大坂街道沿いの村は千両箱を積んだ荷車が通り、金持ちは番人に相撲取りを雇ったり、三階
建の蔵も作ったという。この繁栄は明治期も続き名塩銀行まであり、「宵越しの金はもたない」と
いう通りの生活をしていた。
一介の樵だった名塩の東山弥右衛門が発明した泥の配合が400年も名塩を支え、今でも世界に通用する技術であるのは永く記憶されるべきだ。
■社会の変化に翻弄される名塩和紙
終戦当時、名塩には25~26軒の紙漉きの家があった。ふすま紙がないのでよく売れ、一度に
1000枚も生瀬の駅に持ち込んだ経験がある。
しかし、最近はあまり売れず、文化財修復用が主である。現在、紙漉きは名塩で2軒になった。
狭い山間の村には国道も走り、周囲に大規模な団地が開発された。さらに、バイパスができつつあり、工房の近所も立ち退きになった。現在、原料の雁皮、凝灰岩も採取はできるが、今後の開発動向によっては不確実なところもある。
質疑応答
■六甲山を荒らすツタで紙漉きはできるの?
繊維のあるものならできる。葛でも作っている。
■六甲山にあるノリウツギは使わないの?
紙というより、醗酵させて「のり」に使う。北海道産である。
まとめ(谷野さん)
名塩小学校では1年生から紙漉きを習い、6年生では作った紙を卒業証書に使う。名塩和紙学習館では紙漉き体験ができる。これらを通じ名塩雁皮紙の「変わらない良さ」を皆さんに知ってもらいたい。文化財御用達だけでなく生活にも使っていただきたいものだ。幸い息子が跡を継いでくれる。私は伝統の「名塩打雲」を極めたいと思う。
事務局より
名塩和紙の特徴を決める雁皮、泥が六甲山の存在により生まれてきたこと、戦後の生活変化によって翻弄されてはいるが、雁皮+泥によって発揮される性質は私たちとって変わらない価値を持つものだと再認識した。このような「不易」の魅力をさらに見い出し伝えて行きたいと思う。