参加申し込み

市民セミナー報告書より

秋雨がひと休みした六甲山

 前日の大雨がひと休みした午前中、ボランティア8名が定例の環境整備活動に参加し、アセビ調査区で指標木を設置して害虫防除のコモ巻きなどをしました。気温は18℃で少し紅葉が見られました。唐櫃から午後の市民セミナーに参加される6名の皆さんはシュラインロードを登って記念碑台に来られました。市民セミナーが終わって、夜半には再び雨が降りました。私たちには好都合の天候でした。

豊かな里山の唐櫃を伝える

 今年の3月に下唐櫃まちづくり協議会が『下唐櫃の歴史』を発行しました。下唐櫃林産農業協同組合長の芝 勝行さんから、地元史に詳しい新井 昇さんをご紹介いただき、講演が実現しました。新井さんは有野町誌を編纂し、唐櫃の歴史や文化を後世に伝えるために尽力されています。
 六甲山の北面に位置する唐櫃は六甲山上
の山林を広く所有し、清楚で豊かな里山の情緒に溢れています。六甲山開発の歴史を刻んでいる土地柄です。

六甲山北面で営まれた歴史・文化を知った

 市民セミナーには唐櫃の皆さんと支援されているコンサルタントの方々も参加されました。新井さんは、唐櫃の地理的な位置や特徴を述べられた後、準備された資料に基づいて3つの題目を次々と話されました。休憩を経て、後半は話の補足と質疑応答で賑わいました。
 まず、信仰の山と多聞寺では、六甲山にある名刹の一つとしての由緒を話されました。647年に古寺山の山頂部に創建され、平清盛から山林の寄進も受けましたが、1184年に多田源氏に焼き払われました。1462年に現在地に再建されました。続く、六甲山間道では、六甲山北側の米などを
灘表に運搬した話、シュラインロードの33体の野仏の寄進など、江戸時代以降の地域の産業や生活ぶりを知りました。
 そして、六甲山の入会権問題を巡る裁判で、南側の村々と勝訴・敗訴を繰り返した経緯を知りました。大正15年に入会権を解消して、六甲山上の山林を阪神電鉄に売却したことから、近・現代の六甲山経営に弾みが付きました。
 グルームさんの六甲ゴルフ倶楽部で少年キャディが働いたことなど、地元の生活史の視点からも六甲山の歴史を辿りました。六甲山の北と南のつながりに関心を高めました。

六甲越えを歩いてみよう

 唐櫃は六甲山の里山に触れることができる貴重な文化資産だと思われます。小学生達が「六甲越え」の遠足で唐櫃からシュラインロードを通って、灘表の酒蔵まで行くというプランなどはいかがでしょう。ワクワクしますね。

講演内容

講演の挨拶(新井 昇さん)

 生まれた時から下唐櫃に住んでいます。実家は昔は水車で米を挽いて、六甲越えで酒蔵に運
んでいました。有野町誌の編纂にも関わり、唐櫃の良さを後世に伝えたいと思っています。

1.信仰の山と多聞寺

■平清盛が支援した多聞寺

 有野町上唐櫃、神戸電鉄「神鉄六甲駅」北にある多聞寺は、平清盛の治承年間(1177~80 年)福原遷都の際に、守護寺として寺領を与えられて大いに栄えた。京都八瀬大原の住民を唐櫃に移住させたことから、今も言葉遣いなどに都の名残がうかがえる地域である。
 大化3年(647)法道仙人によって古寺山(636m)に創建され、山岳密教の修験の地として栄えた。寿永3年(1184)源平争いの中、多田源氏の手によって焼き払われてしまった。280年後の寛政3年(1462)に現在地に再建された。

■信仰心の篤い村人達

 唐櫃の村人は3~4年に1度、西国三十三箇所の札所巡りをする習慣があった。札所巡りから無事帰ってきた人は感謝のために石碑を寄進した。六甲山間道のシュラインロード(行者道)には、三十三箇所に因んで、三十三体の観音石仏や大日如来がまつられている。
 六甲山の行者堂では昭和初期まで大護摩法要が営まれ、雲ヶ岩の真下にある心経岩に、般若心経の碑文が刻まれ、多門寺と村人から奉納された。

2.六甲山間道問題

■六甲山の間道、シュラインロード

 上唐櫃から六甲山を登り、行者堂を経て六甲山ホテルの西側の前ヶ辻に至る山道がシュラインロードである。道中の安全を祈願して三十三体の野仏が村人から寄進されて一定間隔で置かれている。かつては追いはぎが出没し、火縄を振って歩いた習慣や、拳銃の携帯許可なども伝わっている。

■六甲を越えて灘表に酒米を運ぶ

 唐櫃(六甲山北側)から、前が辻谷(アイスロード)を降り灘表の田中など(六甲山南側)へ抜ける
近道が六甲山間道である。灘表で酒造りが盛んになった江戸時代中期より後期にかけてこの間道が使われ始めた。
 唐櫃では、水車で酒づくりに使用する酒米を挽いて、灘の酒屋に運んだ。急峻な道を、1日2回、牛に5斗俵を2つ背負わせて運搬した。当時の村人の大半が運送業によって生計を立てていた。灘表の荷運び人と前が辻で落ち合って、荷を引渡し、北と南で運送を分担した。

■通行料の紛争も決着

 万延元年(1860)六甲越え間道通交禁止紛争が起こった。今の176号線が当時の本街道で名塩や西宮などに駅亭があり、牛馬で物を運ぶものや商売用に荷物を運ぶものから通行料を取っていた。抜け道を通られて通行料を取れなくなり、「六甲越えの間道はけしからん」と訴えられ、唐櫃地区は仲介人を立てて何度も話し合いを行った。
 唐櫃からは米、神戸の方からは魚や塩干物などの物流があり、六甲越えの方が神戸に行く最短距離になるので、名塩の駅停の方にお金を払って通ることを認めてもらうという契約で決着した。

3.六甲山入会権問題と六甲山開発

■入会権をめぐって大審院まで係争

 六甲山の入会権については、元禄16年(1703)頃から、菟原郡16ヶ村に対して、牛馬の飼料や農業用肥料として柴草刈り取りの入会権を認め、山手銀(入山料)を受け取っていた。樹木の伐採にまで及び、マツタケ、シイタケ等の育成に弊害が出たことから、明治15年唐櫃より入山禁止を通告した。明治19年、16ヶ村は神戸私審裁判所(地裁)に提訴し、一審は唐櫃村が勝訴した。
 7ヶ村(住吉、横屋、岡本、野寄、徳井、平野、郡家)が大阪控訴院(高裁)に控訴し、柴草刈り
の慣行があったと認められて7ヶ村が勝訴した。唐櫃村は判決を不服として大審院(最高裁)に上告したが、明治20年に敗訴が確定した。

■入会権を解消して阪神
電鉄に土地を売却

 明治20年、7ヶ村と約定書(①持ち込める器具はカマのみ、②必ず鑑札を携帯する、という条
件)を交わし入山を認めた。その後、菟原郡は都市化が進み、柴草の需要はなくなったが、入会権は残っていた。大正15年、阪神電鉄に山林を売却する際に、入会権の抹消が必要となった。
 222町歩については、有野村から唐櫃がいったん17万3千円で買い戻し、さらに灘表に8万
5千円を払って入会権を抹消した。賃貸し料を蓄えていたので払えたのだと思う。(当時の1万円
は現在では1億円くらい)

■六甲山の開発へ

 入会権の解消により土地は阪神・阪急電鉄に売却された。ドライブウェイの整備、六甲山ホテルの開業、六甲登山ロープウェイ・六甲ケーブル開設など、六甲山上の開発が一気に進み、都会から大勢の人が観光に上がってくるようになった。

■グルームの六甲山開発と顕彰碑

 明治28年(1895)イギリス人貿易商アーサー・H・グルーム氏が三国池畔に別荘を建てたのが六甲山開発の始まり。明治38年には18ホールの日本最古のゴルフ場を造った。灘表の土地もかなり含まれたが、唐櫃の土地も賃貸ししていた。六甲山には唐櫃の土地で173町、宅地で2,400坪を賃貸ししていたので、村は比較的豊かであった。明治45年6月、グルーム氏の功績を讃えて、有野村唐櫃や武庫郡六甲村の有志で、記念碑台に「六甲山開祖の碑」を建立した。
 第二次大戦中に排外思想家に壊され、昭和33年同場所に御影石で盾形の碑が建てられた。

質疑応答

■牛車の写真(表紙)はどこか?

 写真愛好家の方が「これはうまいわぁ」と構図を絶賛。新井さんも場所を特定できないものの、
地形から表六甲かと推測

■唐櫃の里山風景を共有したい!

 棚田が拡がり、家屋が点在し、六甲山から流れる用水が通っている。昔の神戸の農村の雰囲気が残っている。ある意味でユートピアと感じる。(安田)

まとめ(新井さん)

 昭和13年以降、六甲砂防による砂防堰堤のお陰で比較的災害は減っている。我々、地元唐櫃としては、できるだけ災害に強い山に木を育てるため、山の手入れの努力を続けたい。

事務局より

 「この地域の昔からの風景や水を守っていきたい。田舎の田んぼや畑も残しながら、住みよいまちを残していきたい」という新井さんに共感した。唐櫃の歴史とともに、そこに残された文化や風習、景観などを垣間見て、本当の豊かさを再考した。