市民セミナー報告書より
六甲山は今年一番の冷え込み
今回から神戸市立六甲山地域福祉センターに会場を移します。早朝の六甲山は-8℃の寒さだったとのこと。快晴に恵まれ、10時のガイドハウスは0℃、ボランティア10名が集まりました。散策路の植生観察、調査区の観測、そして杉の人工林の測量を行いました。午後の市民セミナーに18名が参加し和やかな雰囲気で進行しました。
「市民・企業・行政」協働の校長先生
講師の東郷 賢治さんは、「元校長だったから」と推されて「こうべ森の学校」の代表になられて4年になります。「私がひっくり返った時のピンチヒッターが3~4人いる。事務局も運営のことはやってくれる」、「私は疎いので、そらええやないか、と言うだけ」と、冗談めかして笑顔で話されました。
行政主導で始まり特定企業がスポンサーになり、自由参加の市民が実践する活動は、思惑や利害も輻輳しがちですが、「こうべ森の学校」は参画者それぞれの良さが相乗しています。自然体の東郷さんの持ち味が反映しています。
市民参加の森づくりの先駆事例
「忌憚のない議論」を求められたので期待に応えたいと前置きされ、子ども時代から馴染んでき再度山、修法ケ原の様子、森林整備事務所との関係を説明されました。。
冒頭は「六甲山はハゲ山だった」と題して、明治20年の陸軍測量部作成の地図を基にした再現図で、緑の林地の少なさを強調されました。そして、本多 静六林学博士の植林指導、さらに六甲山のリゾート開発に触れて、六甲山の地質問題の危うさを指摘されました。図表や写真を使った簡明な解説で、治山治水の歴も辿ることができました。。
続いて本題の「協働の森づくり」のお話しです。2002年の「六甲山緑化100 周年」の市民懇話会で、市民、行政、企業が連携した森づくりが提言されました。神戸市と伊藤ハムの提携で支援体制が整い、2003年に「こうべ森の学校」が発足しました。4年目にログハウスの建築に取り組んだことが契機になり、ボランティア活動が活況になりました。森の手入れの様々な活動が盛んで市民との交流も図る発展をしています。。
そして「次世代にみどりをプレゼントする」で、地道な仕事の実態や、生物多様性の保全へのつながり、「繰り返し森に来る子どもを増やしたい」という願いを語られました。参加者は誠実さのこもった熱弁に共感しました。
こうべの森づくりの発信基地
市民、企業、行政、協働の森づくりが順調に確かな歩みをしていることを実感しました。今回は森づくりの同志という気持ちを味わいました。神戸市民から森の担い手が輩出する拠点になってほしいと期待します。
講演の内容
講演の挨拶(東郷 賢治さん)
こうべ森の学校では市民が森づくりをしています。ホームグランドは再度公園の修法ヶ原周辺。戦後は進駐軍の保養所で、私のガキの頃の遊び場でした。この素晴らしい自然を後世に残したいという想いで森づくりをしています。
1.六甲山はハゲ山だった
■ 六甲山の背骨はぼろぼろだった
六甲山の緑は徹底的に収奪された。明治14年、牧野富太郎博士が神戸港で「六甲山には雪が降っているのか」と言った逸話がある。明治20年の参謀本部測量局の地図を基に神戸大学教育研究センターの松下のり子さんが再現した図をみても、六甲山脊梁のほとんどが荒廃岩石崩落山(黄土色に黒点部)となって林地(緑部)がほとんどない。
■本多静六林学博士が植林を指導した
人口増による都市化で水道設備が必要になり、明治33年布引ダムを造った。しかし、上流の再度山は禿山でダムが用をなさない。当時の坪野神戸市長とドイツ留学時にご縁があった、本多静六東京帝大教授が大々的な植林を提言し指導した。彼は街のなかに森をつくるという発想をもっていて日比谷公園などを設計した。明治36年(1903)に砂防林事業に取りかかり、神戸の植林の事始となった。
■六甲山の地質問題は残されたまま
居留地外国人が避暑地開発し、後に阪神電鉄が力をいれ「関西の軽井沢」として売り出したことで六甲山は飛躍的に開発された。ゴルフ場、ケーブル、登山道、別荘、後に会社の保養所があちこちに建ち、はなやかな時代を経てきた。
開発のかげで六甲山のかかえる地質問題は解決されず、山麓各地で大きな水害を再々起した。典型は昭和13年の阪神大水害で、神戸も大被害があった。私はそのとき2歳。兵庫区にいたがその水害で死にそこなった人間だ。
2.市民、行政、企業、協働の森づくり
■行政・企業の支援体制に市民の参画
六甲山緑化100年後の2002年、神戸市がこれから100年の六甲山を考える市民懇話会を立上げ、市民、行政、企業とで連携した森づくりを進めようとの提言があった。それを受けて2003年に前身の会が発足した。市の公募に応じて、社会貢献活動を考えていた伊藤ハムが資金援助で連携してくれた。こうして市民への支援体制がで
き、同年秋に「こうべ森の学校」が発足した。
仕事は主にヒノキの間伐、サクラ等の植林、ひ弱なつつじ等を散髪して再生することだ。伐採に
は専門技術や安全管理も重要で、市の森林整備事務所や、後に養父市の森林組合の指導とノウハウの提供も受けられた。市民、企業、行政の3つの団体の持てる力を出し合い仕事を進めてきた。
■ログハウスづくりが市民活動を成長させた
最初の3年間は森林整備事務所に「おんぶにだっこ」だったが、だんだんスタッフの役割をもち
運営を自主的にという方向になってきた。成長のインパクトとなった事業がログハウスの建設だ。企画や資金こそ提供を受けたが、2年7か月でシルバーの我々がそれまでに培った知識、経験、技を結集させてほとんど自前で作り上げた。
仕事をする中で意識が高まってきて、月1回の例会だけでなく週3日やろうという自主的な動きがめばえてきた。拠点ができたことが活動にプラスになった。森の手入れという共通の活動をすることによって、新たな絆が生まれ、お互いに学ぶことができた。
■市民と交流し森の再生を訴える
公園に来る市民に、こういう森の手入れによって森が生き返るということを知ってもらいたい。
このため、3、4年前から森の文化祭を行っている。六甲山に関りのある企業やボランティア団体
などが集まって発表等をやる。スポンサーの伊藤ハムは社員がずいぶん通常の活動にも参加し、仲間として一緒に活動できるようになった。
ログハウスを拠点に出来てからハイキングに来た市民との対話もできるようになった。サクラを
300本ほど植えた。根づいた苗木を剪定ハサミで切ったり、せっかく出てきたササユリを根こそぎ抜いたりする輩もいるのは事実だが、これからも森の再生の重要性を訴え市民を啓発したい。
3.次世代にみどりをプレゼントする
■伐っては植える地味な仕事を続ける
森の手入れ班は主にヒノキや雑木の間伐で太陽光が林床まで届く森にしていく。日かげでひょろひょろと育ったツツジを手入れすると、4~5年後には立派な花芽をつける。苗造り班はドングリやサクランボを拾って、3年から5年もかけて苗木を育てる。40~50cmになって初めて山に
帰すことができる。地味な仕事だが、100年先を考えた時にこの仕事は値うちを持つ。
■20haの手入れは生物多様性保全の一環
手入れが終った所は8年間で約20ha、述べ人数は来年2月には1万人になるはず。自然観察班は伐った後どんな植物が生えてくるかを地道に調査する。伐採後5年ほどでササユリが思わぬ所からでてきた。これこそ太陽の恵みだ。3、4年前から生物多様性の重要性が言われているが、我々の活動も生物多様性へのひとつの試みと思う。
■将来を託せる子どもを育成したい
工作班は伐採した木を「森の恵み」とし、街に出かけ、子供たちの木工教室を開いた。人気はあったが、「森で拾った松ぼっくり」で工作する意義を重視して、森に来て活動してもらうことを試
みた。植樹は好評で、自分で植えた樹がどうなってるかと、再訪してくる。繰り返し森に足を運ん
でくれる子どもが増えるのを願っている。
中学生のトライやるウイークとして、教育委員会に声をかけたが、まだ1校しかない。5日間い
ろんな山の体験をして帰ってもらうが、よい経験だったと作文は送ってくれるものの、ボランティ
アとしてはこない。街の子が街の中だけで大きくなったらイビツな人間にならないか。せっかく山
に来てもサッカーなど運動場と同じ遊びをする。先生でさえドングリのある場所に来て「ドングリ
を探そう」と言わない。森の恵みで学ぶという目的を持って来て、山のお土産を持ち帰ってほしい。
質疑応答
■森づくりスタッフの養成機関にならないの?
今年のスタッフ研修のカリキュラムは、安全や技術講習3回、ブナの森見学会1回、救命救急A
ED講習会1回をやっているが、養成研修カリキュラムまでに至っていない。
■NPO法人化も考えているか?
若い会員にもその意見があるが、さしあたっての急務であるという意識にはなっていない。
まとめ(東郷さん)
市民、企業、行政の3つの団体がそれぞれの持つものを出し合ってスクラムを組んで仕事を進めたい。今のところは歯車がかみ合っていると自画自賛している。見ず知らずで生きてきた人たちが、の森の手入れという活動を通して新たな絆が生まれる。そしてお互いに学ぶことができるということを大切にしなくてはならないと思う。
事務局より
ログハウス建築を契機に自主的な市民活動に変化するなど、森づくりを通して市民としての成長があったというお話しに感銘を受けた。我々も「まちっ子の森」づくりを進めて、参加者とともに、
森づくりのできる市民としても成長したい。